声が出ないのはメンタルのせいだと言われて思ったこと
もうずいぶん前、二十歳くらいのころですが、朝起きがけの時間に声がまったく出なくなることがありました。それ以外の時間帯はがんばればなんとか声が出ましたが、朝は完全な無声。一度友人から電話がきて取ったはいいが何も言えません。「もしもーし、おーい!」と呼びかけられるもなすすべなくガチャリと切られた時の気持ちは今でも覚えています。意図を伝えるのに普段いかに音声に頼っているか、失ってみて初めて分かることでした。
喉や声にまつわる症状で悩んでいる方は意外と多くいらっしゃいます。声が出ないことの何が困るかというと私のように自分がどういう状態にあるか説明できないことです。人は自分のことを理解してもらえない時に余計さびしさや孤独を感じます。声が出せないのも状況としては同じです。
それにさらに追い打ちをかけるように「メンタルの問題なんじゃない?」と言われることがあります。私も言われました。しかし、なった側の感覚からすると声が出ないのはかなりリアルで身体的です。声を出す気はあるし出そうとしてるはずなのに声が出てくれないのです。心はむしろ普段と変わらず、体の方がおかしくなったと感じられます。少なくとも私の場合はそうで、それをメンタルで片づけられるとどうせ理解されないという思いから逆にメンタルがへこみました。
不調の原因を何でもメンタルに落とし込むことにはいろいろと問題があるように思います。まず、
何をしたらいいか分からない
たいていの場合、メンタル解説好きな人からは具体的なアドバイスが得られません。ただ「それはメンタルなんじゃない?」と言われても何をしたらよいか分からないので困ります。やることが明確でないまま何か対処しようとしてもこちらとしては固まるしかありません。
解釈が必ず入る
メンタルは直接目で見えません。見えたものを通じて「この人はこう思っているのだろう」と他人が思う印象です。そこには必ず解釈が入ります。その解釈がなるほどと思うものであればいいですが、たいがいどこかずれます。
何とでも言えてしまう
そもそも人間のあらゆる活動は心と無関係ではありません。その気になれば何でもメンタルで説明できてしまいます。またフィジカルに着目する場合は、声が出ないのは声帯が振動していないから、声帯が振動しないのは左右の声帯の間が開き過ぎている/きつく閉じ過ぎて空気の流れが止まるから、など事実と論理で現象を説明できます。しかしメンタルに着目する場合は解釈に基づく説明になり、この解釈の真偽を検証するのがとても難しい。ともすれば何でもありになってしまいます。
病院に行ったら「過労です。休んでください。」と私は言われました。確かにそのころは大学、バイト、学外の活動と忙しく動きまわっていたので素直に言うことを聞いて休みました。すると声は数か月で戻りました。
今の自分が当時の自分を見たら、精神的な余裕がなくメンタルがやばそうと思うかも知れません。しかしそのころの自分からしたら余裕がないとはまったく思っていません。というか限界をまだ知らないから余裕なるものの残高も分かりません。むしろ声を失ってみて後づけで自分の限界を知ったわけですから。だから医師がそこには何も触れず休むよう言ってくれたことは適切な対応だったと思っています。
鍼灸師として喉や声の施術を手がけるようになり気づいたのは、かつての私のように「メンタルの問題なんじゃない?」と言われる方が多いことです。メンタルという説明に当事者として確かにそうだなと納得するならいいでしょう。また後になってしっくりくることもあるかも知れません。しかしその時点でしっくり来ないのであれば拘泥する必要はないと思います。当事者もまわりも。
なぜなら役に立たないので。
そう。解釈は真偽ではなく有益か無益かで価値が決まります。しっくり来るのなら役立てて自分を見つめ直せばいいし、そうでなければ無視する方が自分のためになります。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師