学んでも学んでも患者さんに届かないと思ったら
鍼灸院に来る患者さんは自分で症状を自覚してから来ます。
これはつまり鍼灸師が相手にするのは患者さんが主観的に感じている症状であることを意味します。
主観とは感覚的なものです。
感覚は他人と共有できません。
「痛い」と言っている人の痛みを自分が感じることはできないのですね。
そのため鍼灸師は何らかの客観的な情報をとらえて施術を組み立てる必要があり、だからこそ観察すべきことを学びます。
見た目の印象、脈、舌、筋緊張、皮膚の感触など。
患者さんの主観と施術者側の客観を合わせて、何らかのルールに従って「診断」すると使うツボが分かり、実際の施術を組み立てられます。
古典的方法の場合これを弁証と言います。
ここまでできれば鍼はできます。
鍼はできますがこれだと一方通行の独りよがりです。
これを逆にたどって弁証や選穴の正しさを検証する必要があります。
やったことが正しいとする証しを何に求めたら良いのか?
検証には2つの段階があります。
1つは施術者が事前に確認した客観的状況に変化があったかどうか。
2つ目は客観的状況の変化が患者さんの感じる症状の改善に資するものであったかどうかです。
鍼をすることで脈が変わったり、緊張がゆるんだり、冷えていたのが温かくなったり。
意図した変化を再現性をもって引き出せれば1つ目の段階はクリアと言えましょう。
技術を向上することである程度身につけることができます。
2つ目は患者さんが感じている症状が改善するかどうか。
これをあまり重視しない鍼灸師もいます。
1つ目の段階で脈が整っているので大丈夫、お腹の硬さが取れたから施術は間違っていないとか。
でも僕はそれが嫌なんですね。
「検査数値に異常がないから病気ではない」とか「悪いところは取ったから治っているはず」という医者の悪い見本で出される例と変わらない気がして。
1段階目の変化が患者さんの主観の中でどんな意味を持つのか、そういう問いを持つべきだと思うのです。
これって外国語の翻訳とちょっと似ています。
1つ目は辞書の意味を当てはめた翻訳。
2つ目は話し手の気持ちに思いをはせた翻訳。
同じようで同じじゃありません。
医学は科学でありながら、なにを疾患と考えるかきわめて人間臭いところがあります。
生きていく上で不都合がなければ疾患と認識されず、認識するかどうかは人の主観が頼りです。
主観的に症状を感じて来院する以上、そこまで効果を届かせてあげるのがこちらの仕事ではないか。
感覚は他人と共有できません。
でもそれを思って努力することはこちらがやるかどうかの問題ですから。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師