その向上心が危ない
こんにちは!ハリ弟子です。
ハリ弟子が通うアレクサンダー・テクニークの学校Body Chanceの校長ジェレミーはオーストラリア人ですが、「でも」という日本語は知っています。
なぜなら、生徒の日本人がよく「でも」と言うからです。
例えば、弦楽器のボウイングが苦手な生徒さんがいて、アレクサンダー・テクニークを使ってボウイング自体はうまくいったとします。
そんな時に言うのです。
「でも、左手の跳躍がうまくいかなかった」
ジェレミーは聞き返します。
「ボウイングはどうでしたか?」
「ボウイングは、、良くなりました」
しぶしぶ認めさせられるようで、生徒さんはやや不満です。
生徒さんの不満もよく分かります。
やりたいことは演奏であって、ボウイングではありません。
ボウイングだけ取り出せばうまくいくことを、跳躍もボウイングも同時にうまくやりたいのです。
個別にできることを単純に足し合わせればよい、とは言えないところが楽器演奏の難しいところです。
両方うまくやるには、1つずつがうまくできるやり方とはまったく別なやり方をする必要がある、そんなことを経験的に知っているからこそ、無邪気に喜んではいられないのかも知れません。
それでも、ハリ弟子は思います。
今できたことをゼロにしてしまう必要はないのではないか。
「でも、〇〇はだめだった」という言葉は、一見、音楽に対する要求度の高い、向上心にあふれた言葉に聞こえます。
しかし、エサまでたどり着くのに、エサ以外のものに間違って触れてしまったからといって、巣に戻って初めからやり直すアリはいません。
一度エサまでたどり着いてから、何度か往復するうちに余計な道草が減って、まっすぐ行けるようになります。
だから、今はボウイングしかできなくても、それはいつか自分の望む演奏ができるようになるまでの同じ道の上にいると思ってみたらどうでしょう。
ボウイングはできるけど、跳躍ができないし、他にあれもこれもできないから、私の演奏は全然だめ、人前で演奏なんてとてもとても、と考えるとしたらその向上心は妨げです。
かく言うハリ弟子にもこの手の「向上心」があります。
鍼灸の治療しかり、アレクサンダー・テクニークの実習生レッスンしかり、いろんな場面で顔を出します。
正直、勉強会やワークショップなどで、名人のあざやかな手さばきやレッスンを見ると自分とのへだたりにへこみます。
しかし、目の前に患者さんや生徒さんがいる状況では、あれができない、これもできないと考えるのではなく、その時の自分の手の内にあるスキルでできる最善を尽くすしかありません。
(いや、もちろん鍼灸では患者さんの安全の観点から、最低限保証すべきスキルはありますし、そのための国家資格制度ですから、手の内にあるスキルが危険なレベルであれば施術は控えるべきです、はい)
今できていることはできていることとして正当に認めてあげれば、いつかこうありたいと願う姿に通ずる道の上にいることができます。
反対に、今できていることすらゼロにしてしまったら、何もする前の段階に確実に逆戻りすることになります。
昨日のブログでは、患者さんの訴えるさまざまな症状について、鍼灸師は全体として捉える必要があると書きました。
今日は、全体としての「こうしたい」「こうありたい」という願いの中で現時点で部分的にできていることがあれば、当事者である生徒さんは正当にそれを評価すべきであると書きました。
一見、矛盾するように見えますが、全体としては同じことなのです。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師