アレクサンダー・テクニークのレッスンに感じる矛盾
一昨日の記事の続きを書いてみました。
>>期待されている(と自分が感じている)役割を演じることの愚
あらゆるレッスンは先生が生徒に教える形態をとります。
レッスンという場のミッションは生徒が今ある現状から先生がより良いと考える方へと変化させることです。
そういう役割設定なので、生徒に「期待されている」ことをやらせる要素が構造的に仕込まれます。
それでよいレッスンもあります。
音楽のレッスンなら(スタイルとか作品によって)その曲の演奏はこの方がいいね、というのがあります。
スポーツなら勝つためにどうするかという基準でやるべきことや取るべき方法など決まったものがあるでしょう。
でもアレクサンダー・テクニーク、特にアレクサンダー・テクニーク自体を「教える」場合にはどうも合わない気がするのです。
アレクサンダー・テクニークが発祥してから今まで100年ほどの教え方の変遷、その百花繚乱ぶりはこういう問題と無縁ではないと思います。
レッスンとして成立させるためには正と不正、良し悪しの区別が必要です。
解剖学的に事実に即した動きを良しとするのがボディ・マッピング。
生徒がやりたいこと(楽器、武道、スポーツ、ヨガなど)の中に備わっている良し悪しの基準に仮託して、それをより良くやるためにアレクサンダー・テクニークを使うのも1つの方法。
そういう仕組みであれば普通のレッスンの概念で十分進められます。
もちろん「期待されている」ことをやらせる要素は少ない方がいいですけど。
ただアレクサンダー・テクニーク自体を教えるとなると「期待されている」ことをやらせる要素はもっと根本的に定義上相いれません。
“teach(教える)” ではなく “suggest(提案する)” という言葉を使う先生は、多分そんなことを考えている気がします。
鍵は共同開発かなあ。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師