当事者としてやってみることの意味
昨日はアレクサンダーがメンタルのプロセスをコントロールする方法を確立したことに触れて終わりました。
今日はその方法が何だったのか考えてみます。
アレクサンダー自身もうまく説明できているとは思えない(!?)、難しいテーマですがなんとかトライします。
アレクサンダーは声を出す時の体の使い方をあれこれ変えてみて実験を繰り返しました。
そしてある種の実験の時にはやろうと思ったことをそのとおりにやっていない自分に気がつきました。
さてここで「実験」という言葉でふつう何を思い浮かべるでしょう?
遺伝子を変えたマウスを条件をそろえた箱に入れてどうなるか観るような、そういったものではないでしょうか。
この時、観察する我々は完全に傍観者でいられます。
箱の中に生きる当事者はあくまでもマウス、それを外部から観察するのが我々です。
ところがアレクサンダーがやった実験は自分自身が当事者であり観察者でもあるという、まるでデザインの違うものでした。
観察については鏡を見ることである程度自信があったとしても、当事者の自分が設定した条件どおりにやってくれないと実験そのものが成立しません。
遺伝子を変えたふりをしたマウス(そんなものがいるとして)を使ってもきちんとした実験結果が得られないのと同じです。
実験結果を知りたければ、どんなに荒唐無稽に思われる条件でも自分自身が当事者としてそれをやる必要があります。
アレクサンダー自身は自分のやり方を「科学的」と称しましたが、それはこういう実験デザインを前提としたものです。
自分自身が当事者になる必要がある分野というと、スポーツ、ダンスや音楽といったパフォーマンス、演劇など。
特に演劇では芝居の中で役柄の人物にならなければならないので、アレクサンダー・テクニーク以上に当事者として何かをする方法論が蓄積されているようです。
ある元役者さんが意図的に鳥肌を作るのを目の当たりにして僕自身びっくりしたことがあります。
本人によればそういうような思考の持って行き方をするだけということでしたが、自律神経の反応まで引き出すことが可能なんですね。
余談ですが東洋でも、鍼灸医学の考える気の流れ方(経絡)と気功や武道の人が考えるそれはまるで異なることがあります。
鍼灸の方がどちらかと言うと外部からの観察者目線、気功や武道の方が当事者目線と考えると理解しやすいと思います(ただし現在の気功の人が本に書いている経絡は鍼灸のそれのコピーになっていることが多く、別説はあまり知られていないようです)。
こう考えると、現象を観察する時に自分自身も入れるかどうかで見え方が変わるし、実験のデザインも変わってくることが分かります。
ただしデザインを考えるに当たっては自分がコントロールできる範囲かどうかが重要で、アレクサンダー・テクニークでもコントロール外のことはやはり傍観者の立場を取ります。
あくまでも自分にコントロール可能なことを本当に本気の当事者としてやってみてどのような結果が得られるか?
本当に本気の当事者としてやろうとして、でもできない場合はそこにいったい何があるのか?
アレクサンダー・テクニークとは、体であれ心であれこうしたことを観察し体験を重ねながら、やりたいことをやっている当事者に自分を一致させていくためのスキルと言えるかも知れません。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師