接続詞の使い方
最近、日本語の接続詞について考えています。
接続詞とは「だから」「でも」のように2つ以上の文章をつなげるものです。
たくさん練習した。だから本番でもうまくいった。
たくさん練習した。でも本番では失敗した。
接続詞の使い方にその人の考える、あるべき世界観・前提が表れると思ったのです。
きっかけは手話言語学でした。
手話の世界には生まれつき耳の聴こえない人が自然発生的に発達させてきた手話(日本手話)と、日本語を手指で表現できるように置きかえた(指文字など)日本語対応手話の2つがあり、実際にはこの2つが混ざった中間的な手話が使われることが多いのだそうです。
生まれつき耳の聴こえない人どうしでお互いコミュニケーションをとるとき、日本語の音に対応した指文字が意味を持たないことはちょっと考えると分かります(聞いたことないんだから)。
そもそも最初から音声を使わない前提に立つとき人はどのような言語を創造するのか?
この本によると手指に加えて、眉、目、あご、口、頬、舌、頭、肩などを使うそうです。
このように複数の伝達手段を持った言語による表現はどうなるか?
この本の例文から拝借します。
「仕事の面接に行ったら相手の男性が不愛想にじろじろ自分を見ていやな感じだった。」
この文には以下の3つのストーリーが含まれています。
・仕事の面接に行った。
・相手の男性が不愛想にじろじろ自分を見た。
・いやな感じだった。
音声の日本語だと長い文章ですが、日本手話だと手で面接官の様子、顔で自分の様子といったぐあいに同時並行で「話せる」そうです。
声は1度に1つの音しか出せないので、音声言語は1度に1つの文章しか伝えられません。
その点で手話言語は、言語そのものの性能・スペックという意味では世界中のどんな音声言語をも超えてしまってることに驚愕しました。
そこで接続詞について疑問がわきました。
複数の文章を同時に話すということは接続詞をはさむ時間がありません。
手話言語では接続詞はどう扱われるのか?
やっぱり同じようなことを考える人がいるようです。
それも真逆の立場から。
日本手話の立場からすると「だから」や「でも」は要らないのだそうです。
「でも」で話者が言いたいことは逆説の論理性ではなく、残念という感情だといいます。
だったら残念と言えばよいではないか、と。
アレクサンダー・テクニークの生徒さん、あるいは鍼灸の患者さんとお話しするとき、これは大きなヒントになると思いました。
「だから」や「でも」の裏に相手の語られざる気持ちがひそんでいることになるからです。
逆に自分が「だから」「でも」と言うときはその前提を相手と共有しているかどうか、あるいは純粋に論理性からその接続詞を選んでいるのかどうか意識的であった方が良い、ということでもあります。
雑に扱うと自分だけのフィクションを相手に押しつけることになりかねないので。
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2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師