「治る」の意味を考えたい
整動鍼のセミナーでは初めに理論解説があります。
それが毎回話す内容が変わります。
おそらくそのときどきで代表の栗原さんの旬の話題に寄せているのでしょう。
一応テキストはありますが「あとで読めば分かるので~」とほぼ完全無視。
怒る人もいるんじゃないかと半ば心配になりますが、僕はこの時間がけっこう好きで楽しみにしています。
先日、1年ぶりに復習参加した入門編では「われわれは患者さんを治すことはできない」という言葉からスタートし、では「治る」とはどういうことか、鍼でできることがなんなのか、考えを深めていきました。
この「治る」という言葉、気軽に口にしてしまいますがお互いの理解がくい違いやすい言葉です。
なぜかというと人によって指し示す内容が違うからです。
「病院で治ったと言われたけどまだ治ってない」と言う人、まわりで見たことないでしょうか?
患者さんは病院に行くきっかけとなった不快感がまだあるので治っていないと言いますが、病院はおそらく検査数値などが正常範囲内におさまったので治ったと判断したのでしょう。
これは鍼灸でも起こり得ることで、舌診や脈診、腹診などの所見と患者さんの不快感の増減は必ずしも一致しません。
場合によっては完全に見当違いの治療をしている可能性もあるので、主訴に対する認識のすり合わせは常に重要だと思っています。
またどの程度まで改善したら良いのか、ゴールの認識が異なる場合もあります。
「治る」という言葉は、転んですりむいた膝のかさぶたが取れたとか包丁の切り傷がふさがって痛みが消えたといったときにも使われるし、意味幅にグラデーションがある場合にも便利に使われてしまいます。
たとえばヴァイオリニストが指をいためたとして、コンディションに不安なくソロ・リサイタルを開きたいのか、プロオケの現場に復帰したいのか、指導者としてときどき教室の生徒に模範演奏をしたいのか、あるいは日常生活で服を脱ぎ着する際にビキっと痛むのさえなくなればいいのか、などなど思い描くゴールはよく話してみないと分かりません。
「○○ができるようにしたい」
このような文章構造であるとは限りませんがこれに類する思いが患者さんから聞かれたら、○○がなんであれ、また鍼でそれが不可能であっても、それがこの人の「治る」なのだといったん飲み込むことにしています。
このことに関連して思い出される患者さんがいます。
演奏家復帰を目指す指のフォーカル・ディストニアの方でした。
当初、週に1回のペースで施術してわりと改善したのでその後ご本人の奏法改善努力と並行するかたちで隔週、あるいは月に1回などの頻度でみていました。
やがて改善のピークが頭打ちになり、苦しい胸の内をご相談いただくようになります。
僕は僕で自分の技術でこの方のゴールである「演奏家復帰」に役立てるのかどうか確信を持てずにいて、要するにお互いに手づまりな感触になっていたのです。
どうしてそう言ったかよく覚えていませんが「できることを1回全部やってみて、それからあきらめるかどうか決めませんか?」と提案していました。
具体的には1週間毎日施術することです。
料金は確か1回分だけいただきました。こちらからの提案だったので。
果たしてその方は毎日来てくれて、たった1週間でものすごく状態が良くなりました。
それはもう僕も驚くくらい、ツボの可能性を知ることができました。
そのくらい変化の差分は大きかった。
しかし、ご本人の「演奏家復帰」レベルはもっとその先だったのです。
1週間後、その時点の思いとして「心の整理はついた」とすっきりした表情でお帰りになりました。
続けたらもっと良くなったかも知れませんが、毎日施術なんてご本人のスケジュール的にも採算的にも無理です。
舞台を目指すことによる精神的、肉体的負担は小さなものではありませんし、年齢的なこともあったと思います。
世の中には正解のない「治る」がある。
そんなことを教えていただき、その経験は今も同じような悩みを持つ患者さんと向き合うときに活かさせていただいてます。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師