自閉症者の言語習得から鍼灸師の技術習得を考える
とあるウェブ記事から大変興味をそそられ、松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない リターンズ』(福村出版)を読みました。
自閉症の人の中には幼児期に言葉が遅れる人が一定数いるそうで、その理由が衝撃的で心に残っています。
音の認知能力が優れていることがかえって言語の獲得をさまたげるというのです。
どういうことかというと音声を細かく聞き分け過ぎていて、同じ言葉が別の音に聞こえるということです。
同じ能力が音楽の世界ではプラスに働くのに、言語では異なるのですね。
日本語話者が英語のLとRの区別を苦手に感じるのは日本語ではこれを区別しなくても意味が通じるような音声体系があるからです。
たいていの人にはLとRはどちらも「ら行」の音として認識されます。
このように言語にはそれぞれ意味を成す最少の音声体系があって、厳密には別な音であっても同じ音と見なすようフォーマットされています(日本語の五十音のように)。
言いかえると、ある程度雑な聞き方ができないと意味のある言語音として認識するのがかえって難しくなるわけです。
精緻に聞こえ過ぎることでかえって言葉が遅れるとはなんとも皮肉なことではないでしょうか。
こういう認知の細かさ粗さのことを「認知粒度」と呼ぶそうです。
このように定義されています。
認知粒度(cognitive granularity)とは、行為主体が周囲の世界を理解・予測するための時間的・空間的・意味的な分節単位(概念)の大きさを意味する。世界を捉えるときの「解像度」と言ってもよい。
なかなかおもしろい概念だと思います。
言葉というものが平均的な認知粒度の人に合わせて用意されてるとしたら、認知粒度の細かい人は自分の感じたものを言葉で表現するのが困難ということになります。
逆に認知粒度の粗い人にとっては認知粒度の細かい人が言うことは言葉で表現された以上の約束事がありそうだがそれがなんだか分からないということになります。
いずれにせよ双方がコミュニケーションを取るには努力が必要なことが分かります。
ここでようやく鍼灸の話です。
鍼灸の業界もなかなかコミュニケーションの難しい世界です。
大先生と弟子がいるとして、お互いの認知粒度が同程度だったらわりとラッキーかも知れません。
さして苦労せずとも同じ世界が見えるので大先生からも「スジの良い弟子」に見えるでしょう。
大先生が細かくて弟子が粗い場合。
まあこれは弟子がもっと細かく見えるよう努力するのでしょう。
普通の弟子としての育ち方をすると思います。
逆に大先生が粗くて弟子が細かい場合。
これはちょっと難しいケースかも知れません。
専門家はその専門分野の認知粒度がずばぬけて細かいに違いない、と普通は思うからです。
自分の方が細かいことに気づかずもっと細かく見れなきゃと思えばその人は自滅しかねません。
先の言葉の習得の例ではないですが、ものごとには意味を成すための適切な細かさがあります。
大先生も意図的に粗い認知粒度で見ているのかも知れません。
その方がよく意味が分かるなどの理由で。
時間がたって細かさと粗さのピントが調節できるようになったらこういう人はすごく伸びるのではないかと思います。
そして最後に言語化。
小島氏の論文では時間的・空間的・意味的な分節単位は概念に置きかえられます。
概念を保存するためには言語化が必要です。
既存の言葉にそのものずばりが用意されてなくても A > x > B などの方法で異なるものとの境界は記述可能です。
技術という無形のものでも保存しておけば何度でも再利用でき、改良・修正もしやすくなります。
また体験とセットで人に与えることもできるメリットがあります。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師