鍼灸の本質と大衆って?
前回に続いて昭和の鍼灸家の話題。
今日は竹山晋一朗です。
竹山晋一朗を語るキーワードとして「大衆」と「本質」を挙げたいと思います。
彼は一時期共産党から出馬して政治家としても活動していました。
思想背景としてマルクス主義は切り離せません。
「臨床技術としての東洋医学を、最後に支持するのは一般大衆である。それは政府でもなければ、支配階級の人たちや一部の識者でもない。一般大衆である。大衆だけが最後の支持者である。」(『漢方医術復興の理論』より)
ブルジョワ対プロレタリア人民の図式が余すところなく表現されており、
「さあ、国民大衆の中へはいっていこう。そして、私たちの新しい道を切り開いていこう。」(前掲書より)
となると、19世紀ロシアの革命運動家が唱えた「ヴ ナロード(人民の中へ)」をほうふつとさせます。
大衆に役立ててこその鍼灸ということです。
もう1つのキーワードは「本質」。
治療は病の本質に対してなされねばならない、ということにこだわりました。
では本質とは何かというと肝虚証とか腎虚証とかの「証」のことです。
たとえば咳、痰、発熱、発汗、疲れやすい、食欲減退、体重減少、痛み、血尿、膿瘍などの雑多な症状があったとします。
これら1つ1つにばらばらに対処するのが対症療法。
個々の症状は楽になるかも知れませんが、それらが同じ1つの原因から生じていたとしたら病そのものは治りません。
これに対して彼は本質(=証)に対する治療を説きます。
種々雑多な症状はあれど、脈を診て肝に当たる脈が虚してれば肝虚の証に対する治療をする。
証に随(したが)う治療、つまり随証療法が鍼灸のあるべき姿と考えていました。
一方で対症療法ではなく病気の原因に対する治療であれば、西洋医学も評価しています。
「ストレプトマイシンが微生物に対して微生物を用いるという新しい想念のもとに発見された新しい治療法である(中略)細菌学の進歩がもたらした歴史的到達点(中略)随証療法である。」(前掲書より)
と書いてますので。
実は先に挙げた咳、痰、発熱、発汗、疲れやすい、食欲減退、体重減少、痛み、血尿、膿瘍などはみな結核の症状です。
彼の同時代にストレプトマイシンという抗生物質が発見され、不治の病だった結核が治せるようになった、そのことを随証療法的と考えたのです。
さて「本質」についてもう少し深掘りしてみます。
彼は本質を見極める方法を古典に求めました。
本質に対して治療するんだと言われるとどんな病にも効くかのようなイメージを持ちますが、もしそうなら中国人は全員健康なはずです(そんなわけはない)。
すると古典と言えどもその適用範囲を意識する必要があることに気づきます。
この辺り彼がどう考えていたか、うかがい知れるのがこちらの文章。
「近代技術の進歩に伴う外科の技術的な長足の進歩に対して内科の技術的立遅れ、この近代医学における内科の立遅れこそ、随証療法としての漢方医術の存在を可能にしている条件の一つ」(前掲書より)
どのくらい意識していたかはともかく、鍼灸の優位性を内科的症状に見ていたと思われます。
彼の言う「本質」はこの点に注意が必要だと思うのです。
実際、内科的症状に施術して効果を実感していたのでしょう。
また当時は病院にかかっても効果を感じられない患者さんが大勢いたのでしょう。
マルクス主義思想と古典的鍼灸という普遍性ありげに装っているものが実はマーケティング的に大いに受けていた可能性を思ったりもします。
それから半世紀以上が過ぎた現代でもこれが通用するものかどうか。
内科の薬も長足の進歩をとげています。
あえて鍼灸を受けたいと人が思う条件はもっとハードルが高くなっているのではないでしょうか。
「科学というものを、自然現象の記述より以上には出ることができないのだ、と主張する者がいるが、彼らは実証主義的不可知論者であって、弁証法的唯物論を奉ずるわれわれは、現象の深い本質にはいりこむことの可能性と必然性とを証明する。」(前掲書より)
科学がどこまで進歩しても分からないものが残ります。
陰陽がどこまでもさらに小さな陰陽に分かれるように。
現象の本質をつかめると言い切るのは危ういのです。
そういうのは実は「定義」であることが多く、さもなければ「信仰」でしょう。
大衆が「定義」を共有するうちは社会的に有用なものであり得ますが、信者を失った「信仰」はどう進めば良いのか。
今日あらたに鍼灸を志す人が古典と向き合う際に注意すべきことが彼の思考の軌跡から学べる気がします。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師