理論は選んで使うもの
科学史の碩学、山田慶兒は鍼灸の古典を研究した著書の中でこんなことを書いています。
現代医学は事実性に基づく
鍼灸(中国医学)は有用性に基づく
現代医学にも機序不明だけど無害だし効くから使ってる薬もあるから、この対比は相対的なものではありますが、まあおおむねそんなところだとは僕も思います。
少し前まではこれの何が問題?と思っていました。
有用性、つまり役に立つし効くならそれでいいじゃないかということです。
ただ、最近この「有用性」に意外な落とし穴があると思うようになりました。
何らかの投入をしたらこれこれの成果があったとします。
経験が蓄積されデータがたくさん集まると共通の法則が見えてきて、全体としてもっともうまく説明できるものが理論になります。
問題なのは「成果」です。
期待する成果が得られるならそれは有用性が高いということになります。
ではいったいなにを成果とするのか?
骨折が治ること?インフルエンザが治ること?腱鞘炎が治ること?
何の病の治療法を構築するかで方法の有用性が変わり、その後の理論構築も変わってきます。
つまり、目的(対象の病) × 治療法 × 理論、これらは3つワンセットでもっともよく機能するのです。
逆に言うとどこか1つだけ取り出しても、見当違いになる可能性があります。
物事を見る時に最初から理論の枠組みを通して見ていたらなおさらです。
鍼灸の古典理論を使う時、意外とこの視点は抜けているのではないでしょうか?
山田氏はその著作からは、鍼灸の古典理論は今で言うメンタル系の疾患(うつ病など)を念頭に構築されたと考えているように読めます(僕の読み方で間違ってなければ)。
この点について僕は古典をほとんど読んでないので批判する能力も資格もありません。
ただ、どんな理論も万能ではありませんから、当時の医学が何を問題にしてたかに無頓着であってはならないと思うわけです。
もちろん読み方次第でいろいろ豊かな解釈が可能なのが古典でもあるのですが、あんまり難しく考えないといけないとしたらやっぱり無理があるんじゃないのかな。
だったら理論から演繹するより目の前の現象をしっかり見て考えて、使えそうな理論を誰かが考えてないか探した方が速いし有用なことが多いんじゃないか?
何でこんなことを考えたかというと、以前、ある鍼灸師から、台湾の中医師に教わったという気功の奇経を教えてもらったからです。
彼の描いた図では、任脈と督脈が頭頂部で切り替わり、衝脈は脊椎の直前で体の中心を下から上へ抜け、陰蹻脈と陽蹻脈は胴体から足まで、陰維脈、陽維脈は胴体から手までをつないでいました。
同じ人体を見てるのに鍼灸のそれとはまるで違います。
こんなに違っててもいいんだ!と当時は驚きました。
そして思いました。
これは現象をうまく解釈できるよう人が考え出した説明原理なのだ、と。
人が見ている現象は、その人の目的(対象の病)に照らして意味あるもののはずです。
だとすれば理論は自分と同じ目的(対象の病)に向かって構築されたものを(それがあれば)選んでも良い。
要するに、陰陽、五行や臓腑、経絡、気血津液とまったく関係なかったとしても、シンプルに説明できて実際に役に立つものであればその理論、どんどん使うべきじゃないかしら、ということです。
ただし、自分にとっての目的(対象の病)と現象の観察は欠かしてはならず、これと合うかどうかで判断しなければなりません。
こうすると自ずから得意なことが分かっていて限界も見極めた運用になっていくのではないかしら。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師