鍼灸で楽に姿勢が整うのは矯正しないから
鍼施術をしていると患者さんの姿勢に気がつくことはよくあります。
たとえば肩甲骨を指標に背中のツボを取るとき、そもそも肩甲骨の高さが左右で違ったりとか、あおむけに寝てもらったときの足の爪先の向きが違うとか。
三国志に出てくる名医 華佗(かだ)は、病人の背中にランダム(に見える)な点をつけてお灸させたところ、病気が治ったらその点が脊椎をはさんでまっすぐ並んでいた逸話があります(≫ 華佗の治療にみる夾脊穴の運用)。
明治~昭和にかけて活躍した鍼灸家 澤田健にも、内臓の悪い患者が治るにつれて姿勢が整ってきたという話が残されています。
昔から姿勢は病との関連で注目されていたのですね。
ここから逆転の発想で「姿勢を正せば健康になれる」という考えが出てきます。
〇〇矯正という名前のついたあらゆるメソード、グッズ類、整体法などなど。
残念な風潮です。
そもそも姿勢は主訴になり得ません。
猫背でも反り腰でもフラットバックでもストレートネックでも不快な症状がなければ単なる個人差です。
それに姿勢は他人からの見た目であって自分では分かりません。
それを生んでいる身体的状況や思考の癖を無視して外面だけ正しくしても、他のところが痛くなるなどしてメリットがないか、要する努力が大きすぎて続けるのが難しいでしょう。
姿勢のメソードと誤解されがちなアレクサンダー・テクニークでも(少なくとも僕が学んだそれは)、姿勢に関する要望には応じません。
こんなふうに、、
生徒 「猫背を直したいです。」
先生 「猫背でなにに困っていますか?」(さりげに話題を変える)
生徒 「会社のデスクワークで吐き気がするほど肩がこる原因になってると思うので。」
先生 「肩がこらずにデスクワークができればいいですね?デスクワークの動作を見てみましょうか。」
生徒 「はい。」(模擬的にパソコンを置いたテーブルの椅子をひいて座ろうとする)
先生 「ちょっと待ってください、今の座り方をもう少していねいに見てみましょう。」
レッスンではデスクワークにまつわる動作のやり方を学んでいきます。
そのうちに会社の実際の環境では学んだことがどうしてもできないことがテーマになるかも知れません。
深掘りすると上司がパワハラ体質でいつもそばで怒鳴り散らしているなどの事情が分かったりします。
そうなると怒鳴っている人物を目の当たりにしながら自分の内面は平静でいるために、どのように相手を見るか、どのようにその声を聞くか、やはり動作を見ていきます。
こういうレッスンを通じて、ふりかかる刺激への反応として起こる体の内面の緊張を御して自分が本当にやりたいことを選んで実行することを学びます。
鍼灸も同じで、姿勢を直すことを目的にはしません(する人もいるかもだけど)。
肩の高さが違うとか、猫背気味で肋骨が内臓におおいかぶさってるとか、見えていても情報の一部として頭にしまっておきます。
それよりも主訴を聞き、体の状態を全体的に確認したら、主訴と関係するであろう体の緊張を楽にするために鍼をします。
そうして体が楽になると施術前に気がついていた姿勢のことは自然に変わっていることが多いです。
どう変わるかというと、その方が動きやすいだろうなあ、というところにおさまります(あえて直るとか正しくなるとは言いません)。
心が存在するためには肉の体が必要です。
人は自分を取り巻く世界を体という器を通じて認識し頭に思い描きます。
そのせいか施術がうまくいって体が楽になると、ほとんどの人は気分が変わっています。
だから「姿勢を正せば健康になれる」はあながち間違ってはいません。
ただし心と肉の体がうまいことチューンされる必要があって、どっちかだけ型どおりに変えてもうまくいきません。
僕は鍼灸は肉の体へのアプローチに徹した技術だと考えています。
そうでありながら心にもはたらきかける、しかもそれに無理強いがない、すごい技術です。
2016年、東京都練馬区の江古田にて音楽家専門の鍼灸治療院を始める。
2021年、東京都品川区の鍼灸院「はりきゅうルーム カポス」に移籍。音楽家専門の鍼灸を開拓し続ける。
はり師|きゅう師|アレクサンダー・テクニーク教師